生活とはなんだろう

 昨年からのコロナ禍のために研究や課題を自宅で行うことが増えてきた。実際に提出すべき課題が多少増えているのかもしれず、それはそれで大変だとは思うが、「生活の一部やほとんどを犠牲にして課題・研究を行っている」と言って、提出できないことに対して自己弁護する人がいたのは意外であった。

 

 「生活を犠牲にする。それ、当然でしょ」と思う。だって、自ら選んでここ(大学・学部・学科)に来たのだから。
 小学校、中学校は義務教育なので当然ですが、大学も小・中学校と同じく学校に属していること、それ自体がもう生活の一部なのです。そう、それを自ら選択をしてきたのだから。小中学生であれ、高校や専門学校生でも、宿題や課題が終わらなかったら、夜遅く終わるまでやっていますよ。「生活を犠牲にしてやっている」と先生に言うのだろうか?

 大学時代のことでかなり昔のことだが、私自身も生活費や夏のインカレ、東日本大会などの長期遠征費を賄うために、シーズンオフには九十九里浜の民宿・ロッジで泊まり込みのアルバイトをしたり、南欧レストランで皿洗いをしていたが「生活を犠牲にしている」とは思わなかった。
また、会社を辞めてから通った夜間の建築専門学校の時も徹夜で模型を作ったり、図面を引いたりしていたし、その後大学院で研究生活をした際も、当然学費や生活費を稼ぐためにアルバイトをしていたが「生活を犠牲にしている」とは思わなかった。

 自分で好きで行っていることや選んで行っていることについては、多分『生活を犠牲にして行っている』と思わないのだと思う。そう思ったら多分長続きはしない。

 大学での研究や課題は、その後の人生において必要となるスキル(武器)を獲得するために行っている訓練です。最近一斉を風靡した漫画・アニメ(鬼滅の刃)にならって、『鍛錬』と言えば分かるかも。鍛錬は人を成長させてくれるものでもある。

 私達はいろいろなこととと折り合いをつけながらこの先もずっと勉強し続け、人生を生きていくことになるのだから。自分自身が成長したと思えることは生きていく力、またその後も努力しようと思うことにもつながる。これも含めてみな生活なのだと思うのです。

 

 話は変わるが、1月半ほど前に「『プレステの父』近大新学部のトップに」という見出しで来年4月に近畿大学に設立される情報学部に関する記事が新聞に載っていた。記事にもあったが「世の中はどんどん進化している」。これからのデジタル社会を生きて行くためのIT人材の育成を目指すという。また、この新設学部と連携する研究所の所長にNTTドコモの「iモード」開発で知られる方が所長に招かれたとも書いてあった。この所長の方が記者会見で「大学生は最も無理がきく時なので、貪欲であって欲しい」と語った、とのこと。この記事をみたら『生活を犠牲にして行っている』と不満を持っている先のような人たちはどう思うのだろうか。多分、この環境には飛び込まないでしょうね。自分を成長させてくれそうだ、とも。

2021年04月30日